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2004年11月24日 (水)

文学と文芸批評をどこで立て直すのか (本:2004/11/24)

<購入>
田丸浩史『ラブやん』第4巻(講談社/アフタヌーンKC)
沙村広明『無限の住人』第17巻(講談社/アフタヌーンKC)
木尾士目『げんしけん』第5巻(講談社/アフタヌーンKC)
野中英次『魁!! クロマティ高校』第11巻(講談社/講談社コミックス)
『週刊ビッグコミックスピリッツ』No.52(小学館
『週刊少年サンデー』No.52(小学館

<読了>
大塚英志『物語消滅論 −キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川oneテーマ21

『物語消滅論 −キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』ですが、「近代」を(とりあえず)立て直すことが必要だとする筆者の現在の状況分析が読みやすく語られていて(“語り下し”形式だそうです)、非常に興味深いです。筆者は、進化論的な因果律による“大きな物語”としての「歴史」(イデオロギー)が消滅した後では、その代わりに世界を説明する因果律として単純な「物語」(狭義)の構造が採用されているとし、そのリスクに抗するために、「近代」的言説としての「文学」や「文芸批評」を社会の中で機能させなければならないとします。筆者が言う、物語の構造で世界が捉えられてしまうことのリスクというのは、要するに、物語が、説話論的な「善と悪」「主体」「援助者」といったキャラクターとして単純化された要素によって理由などなく展開される(“敵”だから倒す、というような)ものであるが故に、その構造で世界が捉えられてしまうことで物事に理由が求められなくなってしまう(イラクは“悪”だから戦争に理由は不要である、といったように)ということと、物語のキャラクターとして「私」が捉えられてしまうことで、若い世代の近代的自我が形成されにくくなっている、ということなのだと思います。そして、物語はその分かりやすさ故に非常に強い社会的動員力を持っていると。筆者のこれらの状況分析は非常に的確で僕にはあまり反論するポイントはありません。唯一あるとすれば世代論的な輪切りが強過ぎる気がすることぐらいです。それで、そういう状況であるならば、「文学」や「文芸批評」がどの場で行われるべきなのかというのがこれから注目すべき点だと思うのですが、これはどうなんでしょうか。筆者が言うようにこれらを社会の中で機能させようとするなら、届くべき人達のところに届くものでなければならないわけですが、現在の「文芸誌」などはそういうリーチ力を全く持ち合わせていません。それならそれなりの読者を獲得しているライトノベルやマンガなのかというと、筆者はこの辺りの「資本主義システムに奉仕するような形でものを作ることを徹底して求められてき」たものが「文学」の代行をするのは非常にリスキーだと述べます(159ページ:ただし同時にその辺が『文学』をやる可能性も述べてます)。リスキーだというのはわかりますが、しかし、現在「文学」が効果的に立ち上がる可能性があるのはやっぱりその辺しかないんじゃないでしょうか。それが不可能ならばもう社会的に機能する「文学」など無理なのでは。一方で、社会批評としての「文芸批評」の場としては、僕はネットが一番可能性があると思います。こういうブログとかですね。などと言ってしまうとブログの可能性を過大評価しているみたいでちょっと嫌ですけど。

投稿者 enyu : 2004年11月24日 23:59

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