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2005年01月01日 (土)

神社で思うこと

柏市にある広幡八幡宮に初詣に行って来ました。広幡八幡宮には初めて行ったのですが、戦中に建てられた「大東亜戦争」についての大きな碑などがあって、この神社が戦前・戦中に国家神道体制を支えるこの地域での要としての役割を果たしていたことが想像されて(調べたわけではありませんが)興味深かったです。で、神社に行くといつも思うんですけど、神社庁が貼っているポスターによく「祝日には国旗を掲げましょう」とか、国家主義的な振る舞いを奨励するスローガンが書いてあるのはどういうことなんでしょうか。すごく違和感があります。確かに、神社を統括している神社本庁が「本宗」とする伊勢神宮は、「国家の隆昌と国民の幸福」のために祭祀などを行う(それを司るのが天皇)と言っているので、国家の象徴である国旗の掲揚を奨励したりしても変ではないように見えますが、意味をよく考えると、そこで言う「国家」は、近代国家としての現在の「日本国」という「国家」とイコールではない。神道が繁栄を祈るのは、直接的には近代国家(State)としての日本ではなく、国民(Nation)のことのはずです(さらに言ってしまえば、おそらく一般的な感覚では、『国民』ですらなくもっと広くその地域とか社会)。だから、神社が「国家」としての日本国の象徴である「国旗」の掲揚を奨励したりするなら、「国民」の繁栄を保障するものとしての「国家」をまず肯定する、という論理の段階を踏まないといけない。でも、神道は、国家神道ができた際に、国家によってその宗教性を否定された経験があるはずです。そういう歴史があるにも関わらず、神社庁はナイーブに国家を肯定するのでしょうか。僕はアナーキストではないので国家を否定するつもりはありませんが、今でも神社庁がこういう風に国家にすりよっているのは、国家神道の時代を良い時代として無反省に懐かしがっているだけのように見えてすごく気持ち悪いです。神社が、建前においても、国家ではなくて単純にそこに暮らしている人々(外国人も含めて)の繁栄を願う場所になればもっと素直にお参りできるんですけど。

投稿者 enyu : 2005年01月01日 23:59

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